オリジナル
救え。大和高校農芸部!



私立大和高等学校。都内にある私立校、とはいっても23区外にある少し田舎めいた学校だ。目立って頭の良い学校ではないし、スポーツにおいてもこれといった功績はない。この高校の唯一の特徴といえば、部活動への加入が義務ということぐらいだ。もちろん、そのお陰で活気付く部活もあれば、そうでない部活というのもある。
この部活、農芸部はどちらかというと後者が当てはまる。
「暇ねぇ」
 放課後、部室の机に突っ伏しながらあくびをする女子生徒。
「それでも、もう少し緊張感持とうよ……。仮にも男の前なんだからさ」
 そう言って諌める男子生徒。鎌地耕介、十五歳。嫌いなことが植物の間引きという十万馬力の鉄腕ロボット並みに心優しい男の子だ。
「男って、あんた一人でしょ?」
 そう言って豪快に笑う女子生徒。田畑菜々子、十六歳。性格に難あり。
「なんだかなぁ」
 小学校からの仲とはいえ、もう少し自分のことを男として見てくれてもいいのではないかと思う鎌地なのだが、結局言い出せずにいる。まぁ、言ったところで暖簾に腕押しだと分かっているから……というのもあるし、別にそこまで真剣な悩みでもない。
「暇。なんかやることないの?」
「やることって言ってもねぇ。この農芸部の冬をオフシーズンだって言ったのは部長の菜々子じゃんか」
「……ウルサイ、口答えするな。鎌地の癖に」
「どっかのガキ大将かよ」
 ため息をつき、鎌地は窓際の観葉植物へ向く。手にはジョウロ。オフシーズンと菜々子に宣言されたので買ってきた観葉植物に水をやるのだ。
「今日の晩御飯はなにかしらねぇ」
 机に突っ伏しながら、菜々子は間の抜けた声で独りごちる。
「もう少し考えること、あるでしょうが」
「例えば?」
「……」
 菜々子は顔を上げ、観葉植物に水をやっている鎌地を意地悪く見る。
「た・と・え・ば?」
 何も言い返せない様子に満足し、鼻を鳴らす。
「ほら、何にもない」
 勝ち誇ったように言い、菜々子はまた机に突っ伏す。
「た、例えば……新しい食べ合わせを考えてみるとか……」
 それでも、馬鹿にされるのは悔しかったので、鎌地は苦し紛れにつぶやいた。聞こえていなければスルー、聞こえていればそれはそれでというチキン発言だ。
「馬鹿じゃない?」
 どうやら聞こえていたらしい。横隔膜が千切れんばかりに笑っている。
「結局、あんたも食べ物の話じゃない。それに食べ合わせってアレでしょ? アボガドにわさび醤油でトロの味とかいうの」
「そうだけど……」
「悲しいかな、貧困な発想力しかないのね」
 菜々子は笑いすぎて目じりに溜まった涙を拭う。
「でも、誰が発見したのかしらね。アボガドにわさび醤油でトロの味って」
 馬鹿にするように笑い続ける菜々子。まぁ、その気持ちはわからなくもない。
「さぁね」
 さすがにカチンときたのか、鎌地はぶっきらぼうに答える。
「それとさ、アボガドじゃなくてアボカドだよ」
「何が?」
「正式名称。ガド、じゃなくてカドなの。鍬田が言ってた」
 鍬田というのは、今日は居ない農芸部部員。家庭の事情という理由で最近は顔を出さない。野菜の知識にかけては部一番を誇っていて、鍬田自身、その知識量を自慢にしている。
「それ、本当?」
「本当だよ。アボガドなんて誰が言い始めたかは知らないけど本当の名前はアボカドなの」
「へぇ」
 瞳を輝かせ、興味津々といった様子の菜々子。
「アボガドは、スペイン語で弁護士っていう意味がちゃんとあるから、余計に性質が悪いよね」
 鎌地の背中に悪寒を感じた。菜々子の目の色が一瞬で変わった。
「そう……私たちは騙されていたのね……」
「そんな大げさな」
 鎌地は笑って言うが、菜々子は笑うというより怒っている雰囲気だ。こういう時は、良いことが一つとして起こったことがないことを鎌地は体で覚えている。
「菜々子?」
震える声で菜々子を呼ぶ。
菜々子の手は机の端をしっかりと握り締め、離さない。
「これは、陰謀よ」
「へ?」
「これは、陰謀なのよ!」
 部屋いっぱいに響き渡る大声で断言する。
「陰謀って、そんな大げさだって。ほら菜々子、落ち着こう?」
 顔を引きつらせながらも必死に止める鎌地を無視し、なおも菜々子の暴走はエスカレートしていく。
「あぁ、かわいそうなアボカド」
 カド、を強調する。
「これは全国的ないじめ行為だわ。わざとアボカドの名前を間違えさせるように世の人に刷り込む……。なんて卑劣なのかしら」
「菜々子?」
 思い込むと止まらないという小さいころからの菜々子の悪い癖が出た。こうなってしまったら、誰が止めに入っても止まらないということを経験的に鎌地は知っている。
「菜々子? 落ち着つこう?」
 それでも、鎌地は一応止めてみる。何度も言うようだが、無駄だということは重々承知の上だ。
「ごめん、鎌地。冬は農芸部のオフシーズンだって言ったけど、あれ撤回。なんとしてもアボカドを救わないと」
得体の知れない使命感を抱いている菜々子の目からは、アボカドを思う優しさが満ち溢れている。
「救うって、どうやってさ」
 ここで考え直してくれることへの一寸の期待を込めて突っ込む。
「まずは、関係各所へ謝罪を要請する」
「関係各所?」
「アボカドをアボガドだって広めた所よ、当然じゃない」
「いや、そんな所あるのかなぁ」
 毎度のこととはいえ、今回の妄想は度が過ぎているような気がしてならない。
「ある。絶対ある。火のない所に煙は立たないの」
 自信満々に宣言する菜々子。菜々子からしてみれば、キョトンとしている鎌地が信じられない。毎度のことながら、理解力の無い男だと思う。
「……はぁ」
 仕方ないな、というため息を漏らす。菜々子をこうしてしまったのは自分だからという諦めがあるだけ、理不尽に振り回されるよりは良い。
「ようやく自分の立場がわかってきたようね」
 ニンマリ笑う菜々子。
「それで、なにからすればいい?」
「まずは、帰り際にスーパーにでも寄って手がかりを見つけるの」
「なるほど、今回は意外と考えているんだね」
「なにか言った?」
「なんにも」
 視線を外しておどけて見せる。鎌地ができる、せめてもの抵抗だ。
「いいから、帰る仕度なさい」
 いつの間にか帰り仕度を済ませている菜々子は、不機嫌そうに鎌地を睨む。
「はいはい……」
 のろのろとジョウロを片付ける。
「早くって言ってるの。お店が閉まったらどうするの」
「大丈夫だよ、まだ。スーパーの閉店時間は確か十時だし」
 教室の時計を指差して言う。
「まさか、一つしか行かないとか考えてない?」
「違うの?」
「そんなわけ無いじゃない。手がかりが無かったら、何軒だって回るのよ」
鎌地は、カバンがドッと重くなったような錯覚を感じた。諦めなければよかったと後悔する。
「ほら、いくわよ」
 準備が済んだと見ると、菜々子は鎌地の手をとって歩き始めた。
「この近くにスーパーなんてあったかしら」と、子どものような顔で独りごちる菜々子を見ると、鎌地はまんざらでもない気分になる。
「学校の裏門のところに1つあるよ」
「じゃあ、そこからね」
菜々子の歩くスピードは加速し、鎌地は引きずられる。我ながら単純なものだ、と鎌地は自嘲する。
面倒なことを妄想した菜々子に引きずられる鎌地。昔からまったく変わらない関係だった。




 これは、菜々子が引っ越してきたときの話だ。

 小学校2年生の春、菜々子が引っ越してきた。家は、僕の家の斜向かい。年頃が同じ子供がいる(これは、僕のことだ)ということで菜々子のお母さんは挨拶に菜々子を連れてきた。
「ほら、ちゃんと挨拶なさい」
後ろに隠れていた菜々子に、菜々子のお母さんが言った。菜々子はおずおずと前に出て、僕に挨拶した。
「よろしく」
 緊張が混じった小さい声は、今でも記憶に残っている。多分もう永遠に聞けないんじゃないかと思うほど、心に響くかわいい声だった。
「よ、よろしく」
 震えた声で僕は答えた。
「ほら、どこか遊びに行ってきなさい」
 お母さんが僕の背中を叩いて促した。
「行こう?」
 僕は菜々子に手を伸ばした。
これが、僕と菜々子が初めて手を繋いだ瞬間だった。
「うん」
 僕の手を取り、菜々子が笑った。




 菜々子と鎌地が学校を離れたのと時を同じくして、農芸部幽霊部員の鍬田正造は、困惑していた。
「さて、最後の研修です」
 鍬田の前にいるのは、30代そこらの短髪の男。メタボリック症候群が心配な体型だ。その上に山を作るように『マーケット華丸』と書かれたエプロンを着ている。
 エプロンには、ネームプレートがついていた。それ曰く、男は店長で、名前をカンバラというらしい。
鍬田はこのスーパーのバイト研修を受けている。何のことは無い、商品配置のコツやら倉庫事情の話、値札の話など一度言われればわかるようなことを懇切丁寧に教えてくれている。今はスーパーの事務所で最後の確認を行っている最中だ。
では、なぜ鍬田は困っているのか……。
「簡単なことだよ。今日から、この野菜のことを間違った名前で呼ぶだけでいいんだ」
 神原の手には、手のひらサイズの緑色でゴツゴツした野菜がある。
「野菜の名前を間違えるだけで、時給が20円増しになるんだ。でも、全く怪しいことじゃない。広告費と思ってくれればいいんだよ」
(この店も、なのかよ……)
 鍬田は心の中で毒づいた。
「でも、その野菜の名前は……」
 鍬田は言葉を濁した。迷ってしまった。なまじ本当の名前を知っているだけに、いや、腐っても農芸部の部員として間違った名前で呼ぶことはプライドが許さなかった。
「そう、アボガドだね」
「違います、アボカドです!」
 しまったという顔をするも、遅い。神原が不機嫌な顔になる。
「じゃあ、採用の話は無かったということにさせて……」
「待ってください! それとこれとは話が違うんじゃないですか?」
 ため息をついて手持ちの資料を纏め始めた神原を止める。
「キミね、店長の言いつけを守れない人を置いておくと思っているの?」
「で、でも……」
「最後にもう一度、聞くよ。この野菜の名前は何かな?」
「グッ」
 鍬田は目を閉じて、顔を伏せた。
 頭によぎったのは2人の友達と、2人の家族の顔。
「ごめん。鎌地、田畑……」
 2人の友達に、小さな声で謝る。
 理由があった。どうしても、働かなくてはいけない理由が。家族に説明できるはずがない。こんなくだらない理由でバイトの内定の話を蹴られたなどと。
「じゃあ、やっぱり」
 神原は、資料を持って席を立つ。
「アボガドです」
「なにが、アボガドなんだい?」
 確認するように、意地悪く神原は尋ね直す。
「その、緑色でゴツゴツした野菜の名前はアボガドです!」
「よく言えました」
神原が鍬田の手を取る。
「今日からお願いしますね、鍬田君」
 神原はニコリと微笑み、鍬田に『マーケット華丸』のエプロンを手渡した。




 スーパーを回り始めて5軒目。そろそろスーパーも閉店する時間になっている。2人は『マーケット華丸』のドアを開けて入った。店内には、蛍の光が流れている。
「今日は時間的にここまでだね」
「……まぁ、1日で何とかなるとは思ってないわ」
 今まで行った4軒ではそもそもアボカドが売っていなかったり、ちゃんとアボカドという表記をしていたりと、手がかりという手がかりが見つからなかった。
 まぁ、それが菜々子にとっては不本意なわけで。菜々子は悔しそうな顔をしている。
「いらっしゃいませ」
 お店の教育なのだろう、店に入ると店員が客に挨拶をする。ふと、鎌地の視線が声のする方へ向いた。
「鍬田?」
「鎌地? と、田畑……どうしたんだよこんな所で」
「いや、まぁ。諸事情で」
 鎌地は野菜コーナーできょろきょろしている菜々子を見た。
「なるほど」
 納得したように鍬田が頷く。
「最近来ないと思ったら、ここでバイトしていたんだ」
「あぁ、ここは今日から。つい最近まで違うスーパーで働いてたんだけどな」
 鍬田は苦笑いをして話題をぼかす。
「ねぇ、鍬田。アボカド無いの?」
 遠くから菜々子が言う。
「あ、あぁ……アボガドね」
 鍬田は一瞬驚いた顔をし、小走りに菜々子の元へ駆ける。菜々子にアボカドの位置を教えると、慌てたように去っていった。
「どうしたの? あいつ」
「わかんない」
 菜々子と鎌地は、急いで去る鍬田を見て首をかしげた。
「まぁ、ともかく。これで手がかりは掴めたわね」
「へ?」
「ようやく見つけたのよ、アボガド」
 菜々子は、野菜についているポップカードを見てニンマリ笑う。確かに、濁点がついている。
「あぁ、それと。鍬田に明日部室まで来るようにメールしておいてね。お願い」
 菜々子は箱詰めされたアボカドを1つ手にとってレジに向かった。




 放課後、鎌地からのメールを受けた鍬田は部室に現れた。菜々子は鍬田を席にかけるように促し、ゆっくりと口を開く。
「あんた、昨日この野菜のことをなんて呼んだ?」
菜々子は椅子から立ち、机の上においていたアボカドを手に取る。そのまま、菜々子は鍬田へと向かって歩く。
 まるで法廷のような雰囲気が漂う。雰囲気に押されてか、喉を鳴らしてつばを飲み込んで鍬田は答える。
「アボガド」
「もう一度」
「アボガドだ。何度も言わすな」
 鍬田は不機嫌そうに悪態をつく。
 その様子をどう思うわけでもなく、菜々子は鎌地を向いた。
「鎌地、この野菜の名前は?」
「アボカドだよ」
「そう、この野菜の本当の名前はアボカド」
 カド、を強調するように言って、手に持ったアボカドを鍬田に見せ付ける。
「それがどうしたんだよ。知らなかったんだよ」
「意義あり!」
 菜々子は、どっかの弁護士のように机を叩きながら叫ぶ。
「知らないはずはないわ。昨日、鎌地は確かに言ってたわ。この野菜の名前がアボカドだということを鍬田から教えてもらったって」
「そうだったか?」
 そっぽを向いて知らぬ素振りをする。
「確かに、僕は鍬田から聞いたよ」
「証人はこう言っているわ。どうして鍬田は間違った名前でこの植物の名前を呼ばなければならなかったの?」
 菜々子はそっぽを向いている鍬田の顔をじっと見た。
「言いたいことは、それだけか?」
 鍬田は菜々子のことを見ようともせずに、不機嫌な声で言う。
「俺、今日もバイトあるんだけど」
「あんた、バイト先で何か言われたんじゃないの?」
「何もねぇよ」
 鍬田は語気を荒げる。
「第一、どうでもいいじゃんか。アボガドだろうがなんだろうが」
「鍬田がそんなこと言うとは思わなかったよ」
 ポツリと鎌地が呟く。
 鍬田は、鎌地を見る。
鎌地の手が、肩が、微かに揺れている。
「野菜の名前を覚えるのが得意な鍬田が……きゅうりの学名をソラで言える鍬田が……そんなこと言うとは思わなかった!」
「鎌地……」
「本当のこと、言ってくれよ。鍬田」
 鍬田は目を伏せた。
まっすぐに鎌地のことを見られなかった。
「……ごめん……今日もバイトなんだ」
 そういって鍬田は静かに席を立つ。
 菜々子と鎌地は鍬田のことを止められなかった。そういう雰囲気ではなかった。
 鍬田は、部室の扉を閉めずに歩いていった。
「行ったね」
ため息混じりに鎌地が呟く。
「そうね……っていうか、閉めていけばいいのに。寒いんだから」
「菜々子が閉めればよかったんだよ、そういう時は」
「できるわけないじゃない」
「まぁね」
 鎌地は部室の扉を閉める。ストーブを近くに寄せて、手をかざす。
「とりあえず、わかったことがあったわ」
「というと?」
「鍬田は、何か弱みを握られているってこと。あいつは嘘をついている」
「それは僕もなんとなく感じたけど……。でも、誰に?」
「まぁ、まず間違いなくバイト先の店長か誰かでしょうね」
 菜々子は腕を組む。虚空を見上げ、思案を巡らす。
「問題は、なんでそうする必要があるのかってことか」
 鎌地が呟く。菜々子はそれに小さく頷いた。
 しばらくの沈黙の後、菜々子はカバンを取って鎌地の手を握る。
「とりあえず、行動あるのみ。今日も行くわよ」
 意思がこもった目で菜々子は鎌地を見上げる。
 握られたのと反対の手でカバンを掴んだ。
 昨日の嫌々という気分がなくなっていることに鎌地は気がつく。どうしても、鍬田の行動の意味することが知りたくなった。
「そうだね、行こう」
 鎌地は頷いた。




 数日後、部室には市の地図が広げられていた。
 地図には、赤と青そして黒の丸印で括られている地点が点在している。括られているのは、全て市内にあるスーパーマーケットだ。
「赤はアボガド、青はアボカド、あと黒は売ってなかった店。まぁ、こんな所かな」
 鎌地は三色のペンを机に置く。
 この地図の丸印は、ここ数日の調査の結果を反映したものだった。
「妙、じゃない?」
 地図を見て菜々子が言う。
「確かに」
 鎌地は地図の上側、つまり北側の一点を指差しながら頷く。その地点だけ妙に赤い丸印で括られた店が多いのだ。
「これは、明らかに何かあるわね」
 確信を得た喜びが声からわかる。
「北のエリアのスーパーには何かしらの特徴があるのかしら」
「特徴っていうと?」
「組織めいたものがあるとか」
 菜々子は机の上にある赤ペンをとり、丸で括ったところを線で繋いでいく。
「ん?」
 菜々子が線を引いている様子を黙ってみていた鎌地が身を乗り出す。菜々子から赤ペンを受け取り、地図に大きな丸を描いた。
「ここ、よく見てよ」
 丸で囲まれたのは、線で囲まれた部分の中心。その中にあるのは、一軒のスーパーマーケット。
「マーケット華丸……」
 菜々子は息を呑んだ。
「何かの偶然かも知れない。でも、これは調べてみる価値はあるんじゃないかな」
鎌地はペンの蓋を閉め、得意げに笑う。
「鎌地の癖にやるじゃない」
菜々子は鎌地の腹を小突いてニヤリと笑う。
「もう少し鍬田から事情を聞く必要がありそうね。呼べる?」
「それは無理かも。最近メールしても返ってこないし」
鎌地は頭を振って答える。予想していたのか、菜々子は大して驚くことなく頷いた。
「それじゃあ、直接行くしかないみたいね」
「行って、何をするの?」
「店長を問い詰める」
言い切って、表情を固くする。
「問い詰めるって、何をさ。あなたのお店の野菜の名前が間違っていますとでも言うつもり? まともに取り合ってくれるとは到底思えないけど?」
「うっ……」
 菜々子は言葉に詰まる。おそらく、鎌地の言う通りで終わるだろうと菜々子も分かったのだろう。
「でも、どうするの? このままで終わるなんて私は許せないわ」
「そう言うと思った」
 鎌地は笑う。
「まずは要点を整理しようよ」
 そう言って、育成記録を纏めるために設置してあるホワイトボードの前に立つ。ちなみに、今は活動休止中ということもあって菜々子の落書きしか書かれていない。
「菜々子が気に入らないことって、何?」
「名前が間違って呼ばれていることよ」
 鎌地は、菜々子が言ったことを黒いペンでホワイトボードに書く。それを赤ペンで大きく括り、その上に大きく『目的』と書いて、菜々子の方を向く。
「じゃあ、菜々子にとっては正しく名前を呼ばせることが目的になるわけだよね」
 括ったものを指しながら聞くと、菜々子は頷いた。それを見て、鎌地はホワイトボードに『活動』と書いて、また菜々子を見る。
「そこで僕たちはスーパーを回った。そしたら、間違った名前で販売しているお店が市内の北地区に集まっていること、そしてその中心が鍬田がバイトしているマーケット華丸であることまで発見した」
「そう。それからよ」
 菜々子は腕を組んでホワイトボードを見る。
「それでさ、思ったんだけど北地区で買い物をする人たちってアボカドのことをアボカドっていう名前だって知らないんじゃないかな」
「どうして?」
 納得できない、というような口調で菜々子は聞き返す。
「ほら、菜々子も初めは名前間違っていたよね」
「そうだけど」
「なんでか、って考えてみてよ」
「考えるって……」
 しばらくして、菜々子はハッとしたように鎌地を見る。
「どこかで間違った名前を覚えたんだわ」
「そう、そしてその場所こそが」
「スーパーマーケットってことね。確かに、スーパーぐらいでしかあの野菜に出会うことはないわ」
「買う立場になれば、嫌でも値札を見る。そこに書いてある名前が間違っていれば、普通の消費者はその名前で覚えてしまう、ってこと」
「でも、ちょっと待ってよ」
 鎌地の話に乗りはしたが、菜々子には今一つ鎌地がやりたいことがわからないでいた。
「今までの話って何か関係あるの?」
「大アリ」
 鎌地は得意げに言って、青いホワイトボードマーカーのキャップを外す。
「名づけて、燻り出し作戦」
 ホワイトボードにも作戦名を書く。
「燻り出し?」
「そう」
 鎌地は力強く頷く。
「まず、フェーズ・ワン」
人差し指を立てる。
「フェーズ・ワン?」
「作戦の第一段階ってこと」
「それなら、そう言いなさいよ」
 菜々子の理不尽な怒りを感じ、鎌地はため息交じりに「雰囲気が出ると思ったのに……」とぼやく。
「じゃあ、第一段階」
 自棄気味な声で言い直す。
「市内のスーパーの近くでアンケートをするんだ。部活動の一環で、野菜の名前が正しく言えるかっていうことを調べています、とでも理由を付けてね」
「なるほど。それで?」
「アンケートに使う野菜はもちろん、アボカド。それで間違った名前の人には、本当の名前を教えてあげる。こうして印象付けると、多分だけど野菜コーナーでアボカドのことを見るんじゃないかなと思うんだ」
「でも、スーパーでの名前は間違っている」
「そう。そうすれば世論はあのスーパーはおかしいんじゃないかっていう風に傾く。……あっ、でも初めの方は正しい名前のスーパーの近くでもやるんだよ」
「どうして?」
 手っ取り早く北側でやればいい、菜々子はそう考えている。それも確かに正しいやり方だろうと鎌地も考えてはいた。
「さすがにワザとらしくない?」
 今までの自信満々な姿はどこへ行ったのかというぐらい卑屈な声で呟く。
「馬鹿。その作戦の第二段階は、そうやってアンケートをして回ることでスーパーの店長たちを引き出すっていう腹積もりでしょ?」
「そうだけど……」
「だったら、ワザとらしいぐらいがちょうどいいの。そっちの方がより一層迷惑じゃない」
「なるほど」
 鎌地は頷く。
「さすが菜々子、迷惑かけることに関しては世界一だ」
「なんか言った?」
「いえ、何も」
 キッと睨みつけてくる菜々子を見ないように鎌地はホワイトボードを向き、今までの会話の要点を書いていく。
「長期戦になると思うよ? それでもやる?」
 鎌地は菜々子の方を見ずに言った。おそらくだが、菜々子の表情はわかっている。鎌地は言いながら、赤いペンのキャップを外す。
「当然」
 鎌地が聞いてから待つこと刹那、歯切れの良い返事が返ってくる。鎌地はそれを聞き、赤ペンで「決定」と書いた。




 作戦実行を決定してから1週間が経った。
 決定してからまずしたことは、どの順番で店の前でアンケートを行うかということと、どういう内容を聞くかということを決めることだ。これに1日かけた。
 次に行ったことは、顧問の許可を得ること。学内の活動ではないということから許可が要るだろう、と鎌地は必死に菜々子を説き伏せて許可を取らせた。それに一日かかった。鎌地にとっては予定外の1日だった。
 そんなこんなあって、実質活動という活動をしたのは土日も含めて5日。今日も二人は、市内北地区のスーパーでのアンケート活動を続けていた。まだ5日ということもあってか、2人の望むような結果は出ていない。もとより長期計画ということで始めたものなので、気に留めているわけではなかったが。
 だが、実際には活動の効果は出ていた。
 スーパーの中に入ろうとする人にアンケートをしている菜々子と鎌地の2人を遠巻きに見ている男、神原は隣に居る鍬田に話しかけた。
「あれ、キミのところの生徒なんだってね」
「……はい」
「あれ、キミの友達なんだってね」
「…………」
 驚いたように神原を見る鍬田。
 神原は淡々と続けた。
「調べはついているんだ。大和高校の農芸部だよね、彼ら。そしてキミも」
 神原は鍬田の肩を叩く。
「初めに言ったように、店長の意向に従えない人を雇っておくほどうちの店は優しくないから」
「はい……」
 鍬田は苦い顔をして二人を見た。
 一瞬、二人が憎く思えた。でも、実際に彼らのやっていることは悪いことではないはずだ。悪いことをしているのは間違っているとわかっていながら誤った情報を流し続ける自分たちなのだ。
「店長……」
「なんだい? 鍬田君」
「先に、戻っていただけますか」
「わかった。それじゃあ、ヨロシク頼むよ」
 そういって、神原は店に戻っていく。一人残った鍬田は、ゆっくりとした足取りで二人の所へ向かった。
「おい、鎌地」
 感情を押し殺した声で、鍬田は鎌地を呼ぶ。
 鎌地は驚いた顔で鍬田を見る。鍬田はマーケット華丸の店員だ。今も、マーケット華丸のエプロンを着ている。しかしここはマーケット華丸の前ではない。
「鍬田、どうしてこんな所に?」
「それは、こっちのセリフだ」
 純粋に驚いている鎌地のセリフに、鍬田は苦々しく返す。
「困るんだ、こんな所でこんなことされたら。営業妨害で訴えられても知らないぞ」
「学校から許可を得て、部活動としてやっているんだ」
 鍬田は鎌地の胸倉を乱暴に掴む。
「…………!?」
 鎌地は突然のことに仰天して声が出ない。
 呆然としている鎌地を見たとき、鍬田は自分のしてしまったことを冷静に判断し始めることができた。
 自分の中にある怒りが溢れてしまった。鎌地には関係の無い、理不尽な怒りが。
「…………スマン」
 鍬田は小さく言って手を離した。
「ちょっと、何してるの。アンタたち」
 尋常でない雰囲気を察した菜々子が鎌地と鍬田に近づく。
「……なんでもないよ」
 鍬田の苦い顔を見ながら、鎌地は菜々子に言った。
しかし、未だにおかしな雰囲気であることを感じている菜々子は納得がいかない。
「なんでもないんだ。今日は終わりにしよう?」
それを察した鎌地は、鎌地は菜々子の手を取り、荷物が置いてある学校へ向かって歩き始める。
「え? ちょっと、ねぇ。どういうこと?」
「じゃあ、また学校で」
 去り際、鎌地は鍬田に言う。
「……あぁ」
 鍬田はその場に留まり、返事だけ返した。




 団地の、簡素な鉄の扉を開ける。錆付いた扉からは重々しい音が響いた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 鍬田の母は椅子に座り、首だけ回して帰ってくる息子を見た。
「今日もお疲れ様。疲れたでしょう、ご飯用意しておいたからね」
そう言ってゆっくり椅子から立ち上がって鍋に火をかける。
「俺がやるから、母さんは座ってて」
カバンを置き、慌てて鍬田は母親の元へ行く。
「いいから、いいから」
 疲れきった声で鍬田を制する。
 仕方なく、食器を出して母親が用意をしてくれるのを鍬田は見ていた。
 母親がこんなにも疲れた声を出すようになったのは、つい最近、二ヶ月前に突然父親が倒れてからだ。倒れた理由は過労、ということらしい。今は病院に入院しており、母親は通って世話をしている。
 鍬田は、母親が暖め直してくれたシチューを食べながら、向かいでテレビを眺めている母親を見た。若手の芸人のことなんて何一つわからないのに、そこに居ることが義務というようにクスリとも笑わずに眺めている。
「あ、のさ」
 手を止めた。何かが詰まったような物言いに、不思議そうな表情を浮かべ、鍬田の母親は尋ねる。
「どうしたの? らしくない」
「うん……」
 鍬田は目をそらす。
「今のバイト先、辞めた」
「へ? つい最近はじめたばかりじゃない」
「そう……なんだけど……。どうしても辞めないといけなくなったんだ」
「そう」
 優しく言う。
 その様子に、鍬田は逸らしていた視線を戻して母親を見る。
「そう、って。母さんが今働けないから俺が働かないといけないのに……」
「でも、理由があったんでしょ?」
 優しく見返してくる。
 鍬田は、どうしても働かなければいけなかった。父親の世話をするためにパートを辞めてしまった分を補填しなければ家計が成り立たないと母親から頼まれたから。
「……うん。ありがとう」
「でも、早く次のお仕事探してくれると助かるな」
 母親は笑って言った。別に面白い話題でもないのに、つられて鍬田も笑ってしまった。
 夕食を食べ終え、久しぶりに鍬田は携帯の電源を入れた。
 鎌地からの電話が来るのではないかと思い、ずっと携帯の電源を消していたのだ。案の定、携帯の履歴には鎌地の名前が並んでいる。
 その一番下を選択し、電話をかける。
「鎌地か?」
 2コール目で鎌地が出た。
「明日、放課後に部室に来てくれ。話があるんだ―――バイトは、辞めた。明日から、お前たちに協力できる。今、この近辺がどうなっているか説明させてほしい」
 電話から聞こえたのは、喜びの声だった。夕方のことがあったからどんな反応を取られるか不安があったが、鎌地に対してはそれも取り越し苦労であったことを知る。
「ありがとう、じゃあ明日」
 そういって、ゆっくりと電話のボタンを押した。




 放課後の部室に三人の姿がある。何時振りだろうか、と鎌地は考えてしまう。
 椅子に座り、菜々子は釈然としない顔で鎌地と鍬田を交互に見る。
「それで、なんの用?」
 不機嫌そうな声で菜々子は鍬田に発言を促した。
「昨日電話で鎌地にも言ったんだが、この市内、特に北側で起こっている事態を説明しておこうと思う」
「事態?」
 菜々子は繰り返す。
「二人も気づいているように、あの辺りは尋常じゃない。マーケット華丸を中心とした意図的な情報操作、アボガドと記憶させようとする行為が行われている」
「やっぱりそうだったんだね」
「発端は、華丸の店長の神原だ。奴はこの三ヶ月前に『アボカドをアボガドと呼ばせるスーパーマーケット店長の会』を設立した」
「ちょっとストップ」
 まじめに話を進める鍬田を菜々子が制する。
「途端に胡散臭くなってきてるんだけど?」
「胡散臭いもない、これが真実だ」
 笑っている菜々子を見ても表情一つ崩さず、鍬田は続ける。
「それからだ、市内北側の商店街は軒並みアボカドをアボガドという表記に変えた」
「それが、この町に起きている事態ってことか」
「そうだ」
 鍬田は鎌地を向いて頷く。
「じゃあ、全ての元凶はアイツにあるってわけね」
 菜々子は、解けない問題の答えがわかったときのような明るく明快な顔をする。
「いや、そうとも言い切れない」
「どういうことよ」
 菜々子の頭に疑問符が浮く。『アボカドをアボガドと呼ばせるスーパーマーケット店長の会』を作ったのが神原なら、神原を取っちめれば問題は解決するのではないのか。
「神原の後ろには、強力な団体がついている。直接的な団体としては、現在神原が所属している団体、『鼻濁音保存会』が。そして更にその上には『日本濁音会』と呼ばれる団体が存在している」
「益々もって胡散臭いわね……」
「しかし、事実だ」
「わかってるわよ。だから笑わないで聞いてるんじゃない」
 大真面目に切り返してくる鍬田を見て、菜々子は肩をすくめた。
「それで、その大きな団体がバックについているからなんだってのよ」
「農芸部の活動をどこで止めるか、ということが問題になってくる。市内の話であれば、『アボカドをアボガドと呼ばせるスーパーマーケット店長の会』の長である神原を止めればいい。しかし、活動をもっと広げようとするならば『鼻濁音保存会』や、最悪『日本濁音会』に睨まれることもあり得る」
「だから、それで何よ」
「危険だ」
 大真面目に鍬田は菜々子と鎌地の二人を見る。
「俺が言っているのは、全部本当のことだ。『鼻濁音保存会』は存在するし、『日本濁音会』も存在する。有名な話では、茨城県のことをイバラギケンと定着させたのも、『日本濁音会』の働きだとされている」
「中々にスケールがでかいわね」
「そんなことはどうでもいい。それで、どうするんだ?」
 鍬田はそろそろスケールの大きさについていけなくて呆け始めた菜々子を見る。
「どうって……」
 菜々子は視線を鎌地に向ける。鎌地はあごに手を置いて考え込むようにして俯いている。
「どうしたのよ、鎌地?」
「あっ、いや……なんでもないよ。大きな所まできたなぁ、って思っただけ」
 突然振られた話に返し、アハハハと笑う。
「はぁ……確かに鎌地の言うとおり大きな所まできちゃったわねぇ」
 机に突っ伏してため息をつく。
「でも、始めちゃったからにはどこかに締めを作らないといけないのよね……」
 しばらく間を空けて、菜々子は顔だけ上げて言う。
「とりあえず、市内。それでいい?」
「部長は菜々子だ、僕は菜々子に従うよ」
「妥当な判断だと思う」
 二人は菜々子の決断に頷いた。
「問題はこれからどうするか、ね」
「僕らの活動を見た華丸の店長の反応はどうなの?」
 まるで書記をするのが自分の定位置といわんばかりにホワイトボードの前に鎌地は立つ。
「いい反応はしてない。痺れを切らすのも時間の問題じゃないかと俺は読んでいる」
 鎌地は要点をホワイトボードに書いていく。
「じゃあ、もう少し続ければ店長を燻り出せるってことね」
 前向きな進展であるにも関わらず、誰の顔も浮かれてはいない。全員がそれからが問題だということをわかっている。
「ちょっとやそっとでは、活動を止めてくれないでしょうね」
「それは勿論そうだろうな」
「……それでも、話し合いをしてみない?」
 考え込む二人に向かって鎌地は、恐る恐る言った。
「それでどうこうなる訳ないじゃない!」
 呆れ果て、菜々子は怒鳴った。鍬田も同意見のようで、菜々子の言ったことに頷く。
「でも、そうしないことには始まらないでしょ?」
 鎌地は二人を見る。一見、無茶苦茶のように聞こえるが、これは正論だ。正論に反対するというのは難しい。
「……そうね」
「あぁ」
 二人は渋々頷く。
「まずは今の活動を続けて、華丸の店長が来たら話し合いで二度とアボカドのことをアボガドなんて表記しないようにお願いするってことで」
 鎌地は頷く。それに少し遅れて、鍬田も頷いた。



10
 初めて菜々子と会ったその日、僕と菜々子は二人して遊びに出かけた。
「ねぇ、あれ」
 僕の家を離れてからすぐ、菜々子は道端のダンボールを見つけた。油性ペンで『拾ってください』と書いてあるダンボールだった。
 見つけるや否や、菜々子はすぐにダンボールの方へ駆け出していた。
「かわいそう……」
 ダンボールの中に居る薄い黄土色の犬を見て、菜々子は呟く。僕も、同じことを思った。
「ねぇ、どうにかできない?」
 この日、この瞬間だった。僕は、田畑菜々子という人間を知った。
「どうにか、できないかな?」
 目に涙を溜めて、僕に聞いてくる。でも、僕にはどうしようも無かった。
「んしょ」
 僕がおろおろしているうちに、菜々子はダンボールの中に居た犬を抱えた。
「どうするの?」
「飼い主を見つけるの」
 きっぱりと答える菜々子に、僕は困惑した。
「見つけるって、どうやって?」
「人がいっぱい通るところに案内して。お願い」
「わ、わかった」
 尋常じゃない菜々子の雰囲気に気圧されて、僕は言われるまま大通りに菜々子を案内した。菜々子は息を切らして僕の後を着いて来た。
 大通りに着くと、菜々子は大声を出した。
「この子の飼い主になってくれる人を探しています!」
 僕は更に困った。道を行く色々な人が、僕と菜々子に奇異の目を向けている。
「お願いします!」
 菜々子はそんなことを構わずに犬を抱えて叫び続けている。気のせいか、菜々子の顔色が悪くなってきている。
「どうしたの?」
 優しそうなオバサンが、大声を上げる菜々子に話しかけてきた。菜々子は嬉しくなって、早口で話始めた。
「この子、捨て犬なんです。でも、私の家じゃ飼えないから誰かに飼って貰いたくて」
「そう……でも、ごめんなさいね。主人が犬嫌いだから飼えないのよ」
 オバサンは、そう言って去っていった。
 その瞬間、糸が切れたように菜々子が倒れた。
「菜々子?」
 僕は屈んで、倒れた菜々子に話しかける。
「犬は?」
 菜々子が抱えていた犬は、菜々子の横で座ったまま菜々子を見ている。
「そこにいるよ」
 僕は、犬を指差した。
「よかった―――ゲホッ」
 安堵の言葉と共に、肺から搾り出されたような咳をする。
「ちょっと、菜々子?」
 菜々子の咳が止まらない。僕は、菜々子をそのままに近くにある電話ボックスへ駆けた。大丈夫、家の近辺は僕の陣地だ。どこに何があるかくらいわかっている。
 僕は、電話ボックスに入って119を押す。電話はすぐに繋がった。
「助けてください。友達の咳が止まらないんです!」
 僕は慌てて電話の向こうに居るオペレーターに話した。
「落ち着いてください。場所はどこですか?」
「二丁目の、大通りです。ガソリンスタンドのすぐ近く!」
「わかりました。すぐに向かいます。落ち着いて、私たちが来るのを待っていてくださいね」
 オペレーターが電話を切る。サイレンが電話ボックスから響く。
 僕は、すぐに電話ボックスを出て菜々子の元へ駆けた。菜々子の周りは、人だかりができていた。
「通してください。友達なんです!」
 人垣を抜けて、僕は菜々子の元に着く。咳は相変わらず止まる様子がない。おろおろしていると、すぐに救急車が来た。
 救急隊員はすぐに菜々子に呼吸器を当て、救急車で菜々子を運んでいった。
僕はその場に居るだけで何もできなかった。何がなんだか分からなくなり、気がつくと、僕は菜々子が拾った犬と一緒に家に戻っていた。
 次の日、菜々子と、菜々子のお母さんが僕を訪ねてきた。
「本当に、ありがとうございます」
 菜々子のお母さんは、何度も僕に頭を下げてきた。
 菜々子が動物アレルギーなのだと、そのとき初めて知った。それなのに、菜々子は『かわいそうだから』という理由だけで犬を抱えて何分も歩いていたというのだ。
「犬は?」
 菜々子のお母さんが僕のお母さんの所に行ったのを見ると、菜々子はバツが悪いようにモゴモゴと呟いた。
「居るよ。うちに」
 それを聞いて、菜々子の表情が明るくなった。
「飼うことになったんだ。僕の家で」
「どこ?」
 菜々子はポツリと呟いた。
「リビングにいるよ」
「見たい」
「触っても大丈夫なの?」
 昨日のことがある。僕は心配になって聞いた。
「少しなら、大丈夫」
「わかった」
 僕は、菜々子に秘密で菜々子のお母さんに大丈夫かどうか確認した上で、犬を菜々子に見せた。
 菜々子は嬉しそうに目を細めて、犬を撫ぜる。
「名前は?」
「まだ決まってない」
「じゃあ、決めていい?」
「いいよ」
 この犬は、僕だけの犬じゃない。
 菜々子が拾って、必死になって飼い主を探したんだからこれは菜々子の犬でもある。菜々子が名付け親になることを拒む理由が僕には無かった。
「じゃあ、モンブラン」
「モンブラン?」
 あまりに面白くて、僕は笑ってしまった。多分、黄土色の毛を見て決めたのだろう。その単純なネーミングセンスがツボに嵌った。
 菜々子は、恥ずかしそうに僕を睨む。
「いいじゃない」
「うん、モンブラン」
 単純だけど、面白い名前だと素直に思った。モンブランも、気に入ったのかワンと鳴いた。
 この瞬間、僕は決めたことがある。
 菜々子は、多分この先も後先考えずに突進していくことがあるだろう。僕は、菜々子が失敗したり、菜々子一人ではどうしようも無くなったりした時にサポートし続ける。絶対に。



11  
 活動を始めてから二週間が経った。活動を開始する時に決めた順番どおりに進めて行き、ようやく最終地点のマーケット華丸の番となる。
 三人が活動を始めようと準備をしていると、店から華丸のエプロンを付けたメタボな体型の男が歩いてきた。
「こんばんは」
 神原が三人に挨拶をする。
「こんばんは」
 菜々子が答える。
「私たちは、この近くにある大和高校の農芸部です。今日は、この近くで調査活動をさせていただきたいと思っています」
「どんなことをするんですか?」
「具体的には、この野菜アボカドの名前がどれだけ正しく広まっているかということの実態調査です」
 挑発するように、アボカドのカドを少し強調してみる。
「しかし、なぜスーパーの近くなんです? ほかにも大通りとか色々あるでしょう」
「まずは、主婦層から調査をしようと思っています。この時間のスーパーマーケットには夕飯の買い物に来ている方が大勢いらっしゃいますので」
 菜々子は鎌地が予め作った店長対策マニュアルどおりに応答する。
「失礼ですが、もう少し詳しい話を聞かせて貰えないでしょうか」
 声を落とし、脅しをかけるように神原が言った。
「店先でやるならば、先に許可を得るというものが道理でしょう? ほかのお店も迷惑しているという話を聞きます。少し、大人の話をしましょう」
「わかりました」
 菜々子は素直に頷いた。ここまでは、計画通りだ。
 案内をされたのは売り場の裏手にある店長室という部屋だ。伝票やら本店から送られてきた書類やらが散乱しているため、お世辞でも綺麗とはいえない。ここでバイトをしていた鍬田が研修を受けたのも、この部屋だった。
「どうぞ、おかけになって」
 神原は部屋に入るなり、応接用のソファーに三人を促した。促されるままに、三人は座った。
 汚い部屋に居るのは、神原と農芸部の三人、それとスーツを着た女が一人。
「どこから話せば良いでしょう?」
 神原は、スーツの女に目配せをする。
「貴方がお好きなように」
 女は、柔和に笑って言う。
「では、目的はなんです?」
 神原は回りくどい問答をせず、単刀直入に切り出してくる。
「アボカドをアボガドと呼ばせるのを止めさせるためです。物は、正しい名前で呼ばれるのが一番だと思います」
 菜々子はきっぱりとした声で切り返す。
「現代語に慣れ親しんだ若者が、それを言いますか」
 笑いをかみ殺したような声で神原が言う。後のスーツの女はその神原の様子に小さく笑う。
「店長さんは、アボカドではなくアボガドが原産地であるスペインでどういう意味を持つ言葉かご存知ですか?」
「いえ、知りません。現地でもアボガドと呼ばれていると思っていましたが?」
「弁護士、です。アボガドと呼ばれることで全く意味を変えてしまうんです」
 菜々子の言葉を聞いて、神原はフゥとため息を漏らす。
「それが、何か? ここは日本です。日本でどういう呼ばれ方で親しまれようがいいではありませんか? それが本来の形でなくとも……アボガド、私はこれでいいと思いますよ」
 菜々子の顔が真っ赤に成っていく。
「そ、そんなっ。本来の呼ばれ方で呼ばないなんて、アボカドに失礼じゃないですか」
「失礼? どう失礼なんですか?」
「ど、どうって……」
 頭に血が上り、冷静さを欠いた菜々子は次の言葉が浮かばない。その様子を見て、鍬田が口を開いた。
「店長、いえ、神原さん」
「なんでしょう? 鍬田君。びっくりしましたよ、まさか本当に辞めてしまうとは思ってもいませんでした」
「それは、どうでもいいことです」
 鍬田は努めて冷静に言葉を続ける。
「神原さんは、本来の呼ばれ方でなくとも良いと言われました。では、神原さんがある日突然カンバラではなくカンハラと呼ばれても我慢できますか?」
「面白いたとえ話ですね」
 神原は声を出して笑う。
「まず、前提が違います」
 笑うのを止め、神原は鍬田の目を睨みつけるように見る。
「私の名前であるカンバラは、日本国内では揺るぎようがありません。この漢字を見てカンハラと読む方はあまりいないでしょうし、もしいても指摘すれば直ることです。この名前のほうがメジャーですし固定されているからです」
 じらすように間を空ける。この話し合いの優先権は完全に神原にあるということを証拠付けているかのように。
「アボガドという野菜の名前は、過渡期なのです。固定されていない状態、ということですね。だから私の名前を出した例を挙げたところでなんの役にも立たないんですよ」
 神原は鍬田から目を離して、悔しそうに手のひらを合わせている菜々子を見てほそ笑んだ。
「お話は、以上でよろしいでしょうか」
 神原は、爽やかな声で三人に言う。菜々子も鍬田も、それに悔しそうに頷いた。
「待ってください」
 ここで、鎌地が食いついた。
「なんでしょうか?」
「僕の話がまだ終わっていません」
 鎌地は、神原が鍬田にやったように睨み付けるように神原の目を見る。
「まず一つ。先ほど過渡という言葉を使われましたが訂正してください。その言葉は、状態が新しい状態に移り変わるという意味を持っています」
「それが、なにか?」
「神原さんの使われた意味ですと、アボガドという言葉に摩り替わるという意味になってしまいます」
「問題ないでしょう」
 何を言っているのだ、というような馬鹿にしたように神原は鼻にかけた笑いをする。
「本当に?」
「何の問題があるんです?」
「それには……」
 鎌地が言葉を続けようとした瞬間、後のスーツの女が会話に絡んできた。
「待って。この男に代わって私が訂正させて貰うわ、それでよろしい?」
「…………はい」
 鎌地は努めて冷静に頷いた。
 もしこの時点でスーツの女が訂正をしなければ、鎌地たちはこの話し合いの主導権を握れていたかもしれないのだ。
 過渡とは、状態が新しい状態へと移り変わること。つまり、今まであった状態というものの存在が不可欠となる。それは、“本来はアボガドではなくアボカドである”ということを相手が認めるということに他ならない。今まで認めていなかったことを認めさせることができたはずだった。
 そう、はずだった。
「まずは私の名前ですが、羽賀と申します」
 スーツの女は自らを羽賀と名乗り、三人に深く頭を下げた。
「それでは訂正、でしたよね。過渡期という言葉は不適切な表現でした。現状、アボカドとアボガドは混在しているのです。つまりは混在期とでも言いましょうか」
「では、どちらが正しいのでしょうか?」
 鎌地は、羽賀に食ってかかる。雰囲気からして、今までの神原とは位が違う。鍬田が言った『鼻濁音保存会』か、はたまた『日本濁音会』のメンバーか。
「申し訳ありません。それは私には分かりかねます」
「それでは、正しい表記で読んだほうが良いのでは?」
「正しい表記、それはどういうものでしょうか……。日本に来て意味の変わった外来語は数多くありますよ? 勿論、日本に来て本来とは違った読み方をされた外来語も」
 鎌地は小さな音で深く長く呼吸する。
「ですから、発音の基準はいかに発音しやすいかということにたどり着くのではないでしょうか?」
 羽賀は物腰丁寧に言う。しかし目には鎌地のことを封じるかのような眼力が込められている。
「それは、どうでしょうか」
 鎌地は、羽賀の目を見返して力強く言葉を紡ぐ。
「確かに、日本に来て意味が変わった言葉や本来とは違った読み方をされた外来語は存在します。たとえば、アメリカ第四十代大統領ロナルド・レーガン氏が良い例でしょう。 彼が大統領になった当初、日本の大統領は彼の名前のスペルにつられリーガンという表記をしていました。しかし、それが間違いだということがわかり、マスコミは訂正をしなければならなかったという記録があります。これは、発音しやすいからそうなったのでしょうか?」
 羽賀の言葉が止まる。
とはいっても、対抗する言葉が無いというわけではない。続けようとするならば、いくらでもできるだろう。そう、いくらでもできてしまうのだ。
「この例というのは、正しい表記に統一された良い例です」
「そうですね、そして逆の例も存在します。貴方なら、ご存知でしょう?
」  羽賀の目から力が消えた。
それを見て、鎌地も力を抜く。
「はい」
 鎌地は素直に頷く。それを見て、羽賀はニコリと笑う。敵に回しておくには勿体無い綺麗な笑顔だった。
「この地区は退きましょう。貴方たちの勝ちです。神原には私が説明しますので、ご安心を」
「わかりました」
 鎌地と羽賀は、まるで囲碁や将棋の対局が終わった
ときの様に互いに挨拶をする。
「それじゃあ、帰ろうか……もうヘトヘト」
 鎌地はヘラヘラ笑いながら菜々子の手を取った。
菜々子も鍬田も、何が起きているのか理解できていない様子で突然態度が変わった羽賀をキョトンと見ている。
「今回の勝負、僕たちの勝ちだから」
「はい、その通りです」
笑っていた羽賀が、可愛らしくため息をつく。
「もう、貴方とは戦いたくありません」
「僕もですよ」
 それだけ言って、鎌地は二人を連れて店長室を出ていった。
 店長室には羽賀と神原だけになり、状況が飲み込めていない神原は羽賀に説明を求めた。
「どういうことですか? 『日本濁音会』の幹部である貴方が負けを認めるなんて。それに、いいのですか? この地区を放棄してしまって」
「大和高校農芸部の彼、鎌地耕介は『正しい日本語表記の会』通称『正表記会』の幹部候補です。まぁ、現時点では年齢的に会員ですらありませんが、実力は『正表記会』の知るところとなっています」
「『正表記会』の? まさか、あんな子どもが……。しかし、どうして農芸部なんかに」
 クスリ、と羽賀は笑う。
「多分ですが、どうしても譲れない理由があるのでしょう」
「理由、ですか?」
 理由が飲み込めない神原は首を捻る。
「だから、貴方はその歳で未婚なのでしょうね」
「なっ、それはどういう意味ですか?!」
 神原が興奮で顔を真っ赤にして吼えた。それを全く気にする様子もなく、羽賀は神原に命令を下す。
「それはともかく、即刻『アボカドをアボガドと呼ばせるスーパーマーケット店長の会』を解散させてください。約束ですから」
「……わかりました」
 『日本濁音会』幹部の羽賀の命令に逆らえるわけもなく、神原は深く頭を下げて命令を受け取った。この翌日から、市内全てのスーパーマーケットからアボガドという表記はなくなり、アボカドに統一された。



12  
 放課後の部室に、鎌地と菜々子がいる。鍬田は新しいバイトが見つかったために欠席だ。
鎌地はこれまでの経緯をレポートに纏めている。アンケート調査という名目で課外活動を許して貰っていた以上、結果というものを残さなければいけない。
菜々子は「アンタの計画なんだから、アンタがやりなさい」と全て鎌地に押し付けてダラダラしている。
「でも、なんか不完全燃焼なのよね」
 これで何回同じセリフを言っただろう。
「確かに、目的は果たせたわ。でも、これ、アンタの手柄みたいなものじゃない」
「何言ってるんだよ、菜々子。行動をしようって決めたのは菜々子じゃないか。誰かが行動しなかったら、この結果は出なかったよ」
 市内のマップを見せて鎌地が言う。市内にあるスーパーを括っている丸印は、青か黒かだけだ。つまり、アボカドという正しい表記がなされているか、アボカドを店頭に置いていないかの2つになったということだ。 「そんなもんかしら」
「そんなもんだって」
「まぁいいわ」
 菜々子は立ち上がり、窓から少し離れた場所に置かれた大きめのコップに向かった。これは菜々子専用のコップだ。
「さぁ、おいしく育つのよ」
 そう言って、菜々子はコップの水を取り替える。そのコップの中に入っているのは、マーケット華丸で買ったアボカドから取り出した種だ。
 あの後インターネットで調べた結果、アボカドを観葉植物として育てるということが可能だと知った菜々子は早速実行したのだった。
「うまく育つといいね」
「育つわよ。私は野菜を育てるのが得意なんだから」
 自信満々に菜々子が言う。それを聞いて満足そうに鎌地は微笑む。
「育ったら、また食べましょ。今度は、わさび醤油でね」
 コップを指差して、菜々子は笑った。
「うん」
 菜々子につられるように鎌地は笑う。
「あっ、ジジイがレポート今日中に出せって。ほら、テスト前だから忙しいんじゃない?」
 ジジイというのは、顧問の先生のことだ。鎌地の表情が凍りついた。
「それ、いつ聞いた話?」
「一昨日」
 鎌地は盛大なため息を漏らした。とても、このペースでは終わりそうにない……。
 鎌地は、あの日決意をした自分と、今もそれを忠実に実行している自分を恨めしく思った。
「ほら、頑張れ」
 それも、一瞬だけのこと。
 菜々子はため息を漏らした鎌地を激励するように、ポンと肩を叩いた。
 報酬はこれだけ、でもまぁ、これだけで十分か。鎌地は気合を入れてペンを握った。




緋者そーやのコメント
気づいたら、半年以上更新していないという駄目っぷりです。
今回のは、先日行われましたコミティアで配らせていただいたものですね。50円もとってしまったのですが、えぇ、アレは紙代ということで勘弁ください。お願いします。
次回は、少し趣向の違ったものに挑戦してみようかと思ってます。次回、えぇ、すぐです、すぐですとも。では、また今度。

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