オリジナルSS
Trick or Treat
ドンドン
家賃の安いアパートの薄いドアをこれでもかとばかりに叩きつける轟音ノックで晴山克人(はるやまかつと)は無理やり起こされた。
枕元の時計を見れば朝の5時、ほとんど誰もがまだ寝ている時間だろう。晩秋のこの時期、太陽だって十分に昇っていない。
「ふぁい、どちら様でしょうか」
欠伸を噛み締めながら轟音の元凶に尋ねる。
「えっと……ねねこです」
ドアの向こうから遠慮がちな声が聞こえた。声の高さから女の子のような気がする。
「ねねこ?」
聞いたことの無い名前だ。少なくとも克人の知り合いやその周辺では聞いたことがない。むしろ、生まれてこの方聞いたことの
無い名前だ。そんな名前をつける親はそう居ないだろう。あてられる漢字も無いだろうに。
「は、はい。ねねこです、ねねこです!」
轟音の元凶は嬉しそうに自分の名前を連呼している。なにやらゴニョゴニョと独り言も呟いているようだ。
「すみませんが、僕に何のご用でしょうか?」
正直、寝かせて欲しい。昨日は早く寝たが、昨日まで2徹でレポートを書いていたせいでいくら寝ても寝たり無い気分だ。
克人は適当にあしらう。
「ご用?」
聞き返してきましたよ、克人さん。どうしますか?
「用が無いないようならお引き取り願えますか」
「あっ、いえ、あるんです! あるんです、ご用!」
ドンドンと轟音を鳴り響かせながら、ねねこは泣き声混じりの口調ですがる。
ドアノブをガチャガチャならして自分の存在をアピールしている。まぁ、うざい。
「と、とりっくおあとりーと……」
「えっ?」
今までの大声と一変、聞こえるか聞こえないかの小さな声で恥ずかしそうにねねこは呟いた。言い方もぎこちない。
「ふわっ」
聞き返されると思っていなかったねねこは慌てて、一旦ドアを背にする。スーハーと胸のドキドキを抑えるために深呼吸をし落ち着くと,
ドアに向きなおし、よし、と一発気合を入れ
なおしてもう一度ノックをした。
「はい、なんでしょうか」
律儀にドアの前で待っていた克人は少し怒った声で聞き返した。
「と、とりっく……とりっく」
「トリック?」
「は、はい!」
たった一言通じただけなのに、ねねこはめちゃくちゃに嬉しそうな声を出した。興奮のまま、ねねこは言葉を続ける。
「………お、あ」
ゆっくりと大きく口を空けてゆっくり言う。
「……オア?」
「は、はい!」
なんでこんなに嬉しそうな声を出すのか、克人は不思議でたまらない。そんな克人をお構いなしに謎めいた伝言は続く。
「と、と、とりーと」
「トリート」
「は、はい!」
こんなに嬉しそうな声を出すのはどんな人なのか気になり、克人は扉を少し開けて、ドアの前に居る人を見た。
声からの予想通り、女の子だった。女の子は身長145cm程度、白のパーカーにGパンという簡単な服に綺麗な焦げ茶色の肩ぐらいまである髪、頭の上のネコ耳の持ち主だ。―――って待て待て、なんか変なのあったぞ。
「耳?」
失礼ながら思わず克人は指を指してしまう。
「はい?」
ねねこは克人の指差す方にある自分の右耳を触った。髪ではない感触がそこにはあった。
「あれ〜。おっ、おかしいなぁ…」
右耳触りながらヒクヒクと左耳を動かす。動くということはどうやらまがい物では無いらしい。すると、当たり前ながら本物らしい。くどいようだが、頭のネコ耳はオモチャではないらしい。
「それで、用事というのは?」
克人がは考えるのをやめにして、早く布団に戻ることを優先する。
「とりっくおあとりーと」
ドアの前の女の子は意味を理解していないのだろう、教えられた言葉を棒読みをしているように克人は感じた。
「トリックオアトリート?」
顔を伏せながらコクコクとねねこは頷いた。
そのトリックオアトリートといえば、ハロウィンで使われる有名な台詞だ。
仮装した子供たちが家々をこの台詞を言いながら練り歩き、お菓子を貰うらしい。台詞の意味は『かまってくれないと悪戯しちゃうぞ』だった気がする。
「トリックオアトリート?」
そりゃ、今日はハロウィンだがなんでこんな朝早くからこんな目にあわないといけないのか、当然ながら克人は疑問に感じる。
「とりっくおあとりーと!」
一方のねねこは元気いっぱいに克人の言葉を繰り返した。
「……」
呆れて声も出ない。
「!?」
なんで克人が黙っているのか理解できない。
「…………」
「!!!???」
バタン
克人はドアを閉めた。そうだ、これは夢なんだ。理由は3つ。
1つ、こんな早朝から女の子が訪ねてくるなんて有り得ない。
2つ、昨日提出のレポートを2徹で書いていたためにこんな馬鹿げた夢を見てもおかしくない。
3つ、頭からネコ耳生やした女の子が現実にいるか馬鹿野郎。
ドアを閉じ、モソモソと布団に潜り込む。夢にしてはややリアルな布団の温度を感じながら克人は眠りにつく。
ドンドン
「き、聞いてくださいよぉ!」
涙声を出しながらねねこはドアを叩き続ける。
ドンドン
「とりっくおあとりーとぉ!」
ドンドン
「すみませーん」
ガチャ
ねねこの必死の叫びにドアが開いた。
隣の。
「朝っぱらからうるさいネ!」
ねねこの声に負けないぐらいの大声で怒鳴り付ける克人の隣人の李さん。日本生まれ日本育ちの中国人。近くの商店街にある中華飯店『影武者』の店長だ。
ちなみに、その店は味・量・値段の三拍子が揃っているのだが、とある理由から儲かっていない。まぁ、今その話は関係ない。
「ふ、ふわっ。ごめんなさいー」
ねねこはまるで驚かされた猫のようにスタコラと逃げ出した。
***
コンロの上にかけたやかんの中の水が沸騰している。ガスを止め、部屋の真ん中にあるちゃぶ台の上に置いた。
克人の一日はお茶漬けを食べることからはじまる。昨夜の晩にのうちに炊いたお米をラップに包んで冷蔵庫に入れておき、
朝はそれをレンジでチンして
お茶漬けの素をふりかけ、お湯を注ぐ。簡単かつ美味しいメニュー、ビバお茶漬け。
そんなお茶漬けフーリークの克人の冷蔵庫の中身には、いかの塩辛や鮭フレーク、梅干が常備されていることはもはや
言うまでも無いだろう。なお、漬物は克人自らの手で漬ける。市販のものと違って
自分で好きな漬け具合に調節できるのがいいらしい。
いつものように丼に入れた冷や飯をレンジにかけ、市販のお茶漬けの素を振り掛ける。
ご飯が浸るか浸らないかという微妙なラインまでお湯を注ぐ。今日のお茶漬けの友はいかの塩辛だ。少し
お茶漬けをかっ込むたびに一口、塩辛を口に含む。
本当はお茶漬けの素など使いたくは無いのだが、いかんせん毎日出汁をとったお茶漬けをすると食費がかさむのでできないと
いうのが、克人の大いなる悩みであったりする。以上、お茶漬けトーク終わり。
変な夢を見たものだ、克人は朝のお茶漬けを食べながらそんなことを考えていた。
ネコ耳が付いた人間なんているわけがない。そんなのはヲタクが好きそうな漫画や小説やアニメにしか出てこないはず。
それはヲタクだって理解している一般常識、社会の通説だ。
……多分。
なんであんな夢を見てしまったのか……考えられることはいろいろあるが……
「たまってるのかな……いろいろ」
色々ってなんだ、色々って。ネコ耳娘が出てくる夢なんてヲタクでも見ないぞ……きっと。
まぁ、本当のヲタクは脳内で何でもできてしまうので、一応、「多分」とか「きっと」とか曖昧な表現でお茶を濁しておく。
そんなこんな考えているうちに、丼の中身が綺麗に空になる。手を合わせてごちそうさま。茶碗を洗って乾燥カゴにほうり込む。
とりあえずテレビをつけて、今日の予定を考える。とはいっても、今日の克人の予定は特に無し。昨日までの地獄のレポートが嘘のように今日はのんびりと出来る。まぁ地獄の要因は克人自身にあるのだから誰にも文句は言えない。
「とりあえず、洗濯かな」
部屋には昨日までの洗濯がたまっていた。レポートを書いていたからだけではなく、昨日までの数日間ずっと天気が悪くて部屋干し反対派の克人は洗濯出来なかった。しかし今日は都合良いことに洗濯日和、快晴だ。
洗濯機に洗濯物をほうり込んで水をセットしてボタンをピッ。静かな音が鳴る。
すぐに手持ち無沙汰になったのでラジオをセットして本を読む。ラジオからはいまどき
の音楽が流れている。今ひとつこの手の話題に疎い克人にとっては興味が沸くわけでもなく、ただ流れている音ぐらいの扱いでしかない。
克人は大学で獣医学部に属している。更に言えば、昔から好きだったネコや犬などの大型動物ではない類を専攻したいと考えている。
暫くしてアラームがなった。脱水完了の合図だ。本を閉じて、洗濯機へ向かう。
洗濯機から洗濯物を取り出し、一枚一枚伸ばしながらハンガーにかけていく。
干し終わるとまた手持ち無沙汰になった。急に一日暇になるというのも考えものだ。
「どうしようかな……」
ベッドにもたれ掛かりながら克人は独りごちた。忙しいときにはあれをやらないとこれをやらないとと思うものだが、
いざ暇になるとやるべきことが浮かんでこないというのはどうなのだろう。
ふと時計を見ると10時を少し過ぎた所だった。商店街の店が開いている頃だろう。
「行くか」
本―――といっても専門書―――を読むことに飽きた克人は
思い立つと直ぐ財布をズボンにさし、克人は家を離れた。風は穏やか、洗濯物が飛ぶ心配はしなくてよさそうだ。
***
平日ということも手伝って商店街にはあまり人がいない。
別に宛もなく商店街に来た克人のすることと言えば本屋にいって立ち読みをすることぐらいだ。
お腹が減ったら中華飯店『影武者』の580円ランチで幸せになればいい。安くて量がある『影武者』の定食は克人の生きる活力だ。
「ちょっと君」
本屋に向かう途中の道、一人の女性が道を塞いでいた。確か商店街の塚居薬局の店長だ。名前は塚居真子(つかいまこ)。
Gパンに黒いパーカー、その上に白衣を着込むという一風変わった姿だが、若くて美人でしっかり者という評判が絶えない商店街の
看板娘さんである。うん、若くて美人だ。
問題はその看板娘さんが何故に克人の行方を塞いでいるかどうかだ。
「今日、変わった事なかった?」
やや確信に満ちた表情で塚居さんは聞いてきた。というか、なんらかの確信がないとこんな質問はできないと思うのだけれども。
「えっと…はい、ありましたが」
「具体的に言って」
厳しい口調で切るように話し掛けている。何故だかは知らないが何かに呆れているような感じがする。
「そ、それは言えません」
顔を真っ赤にしながら克人は叫んだ。夢の中にネコ耳をつけた女の子が出て来たなんて言えるはずがない。
「君、ネコ耳を付けた女の子が出て来た夢を見たでしょ」
めがねのブリッジに手をかけながら塚居さんは言い切った。
「エスパーですか……」
唖然の余り馬鹿な事を口走った。だが、そんなことより問題はなんでネコ耳を付けた女の子が出て来た夢を見たと塚居さんが断定したかだ。
「やっぱり……」
呆れた顔をする塚居。克人をほっておいて独り言を呟き始める。
「あ、あの……」
克人が呼んでみても塚居さんはきづかない。
「あの……」
「あ、のぉ……」
「ん、何?」
気付いた塚居が独り言を止め、顔を向ける。
「なんでわかったんですか?」
顔を背ける塚居。
「なんでだと思う?」
塚居は顔を背けたまま聞いてきた。
「いえ、わかりません」
「そう。あなたはそれでいいのどうせ言っても信じないし」
なんだか訳のわからないことを言っている。わかるかと聞いてきておいてこんな返答をされるとは思ってもみなかった。
そもそも、信じる信じないというのはどういういみなんだろうか。
「とにかく、ネコ耳が生えた女の子が現実にいるの。それだけは忘れないで」
「そんな馬鹿なこと」
克人が笑いながらいうと、塚居は真剣な目付きで「本当なことよ?」と念押ししてきた。
「あの子はいい子だから。本当にいい子なんだから話しを聞いてあげなさい」
そう言って塚居さんは克人の前を離れ、足早に塚居薬局の方へと歩いていった。
***
本屋に入った克人はとりあえず適当なイヌネコ雑誌を手に取る。
写真が多い雑誌なので立ち読みには適している。イヌやネコの写真の1枚1枚を堪能してどんどんと読み進める。
「と、と、と、と」
後ろから何やら声がする。なんだか聞き覚えのあるような声だ。
「ん?」
そっと後ろを向くと身長145センチ程度の、頭を白いパーカーのフードで隠した女の子がいた。
「ふわっ!」
女の子は驚いた声を上げた。克人が振り向くとは想像していなかったらしい。
「ふわわわわわわわっ!え、エッチですよ…」
さらに大きな声を出して克人の読んでいるイヌネコ雑誌を指差す。
今広げているページには芝生の上でネコが二匹戯れている写真が掲載されている。
「僕に何か?」
混乱して今にも暴れ出しそうな女の子を相手に努めて冷静に話し掛けた。
「まず、そのエッチな本を閉じてください!!」
イヌネコ雑誌のどこがエッチなのかはわからないが、とりあえず克人は言われた通りに雑誌を閉じた。
「これでいい?」
「……はい」
女の子は釈然としないようだが、渋々と頷く。
「じゃあ話しを戻そう。僕に何か用?」
「とりっくおあとりーと」
コロッと表情を変え、ニコニコとしながら言う。さっきまでの様子が嘘のようだ。
「ん? どっかで聞いたような」
「それはそうですよ、だって私、朝に言いましたし」
朝?
言いました?
何かがひっかかる。
というか、パーカーのフードが動いてないか?
「フードの中に何か入ってるの?」
「ふぇ?」
ねねこは頭をぽんぽんと叩く。
「別に変なものは入ってませんよ」
笑いながら言う。
「強いて言えば、耳です」
ヒクヒク
合わせたようにフードが動く。間違いない、意識的に動かした。
「耳って?」
克人は恐る恐る聞いた。朝の夢が鮮明にフラッシュバックしてくる。
「これですよ」
ニコニコしながらパーカーのフードを取る。
頭の上にヒクヒクっと動く耳があった。
どうやら朝のあれは夢ではないらしい。現実にあったことだったようだ。
いや、待て。この世にネコ耳娘なんているはずがない。昔、自宅にあったマンが本にウナギと犬
が結婚して鰻っぽい犬が生まれていたがあれはそう、マンがだ。現実などではない。じゃあ、これも夢だ。そうだ、そうに違いない。
「どうしたんですか?」
ねねこは明らかに混乱して何も言えなくなっている克人に不思議そうな顔を向ける。
「ど、どうしたもこうしたも……君は何者なの?」
「何者、ですか」
今度はねねこがキョトンとする番だ。
「ネコですね、私」
頭の耳をヒクヒクさせる。
「ネコ?そんな馬鹿な。いや、だけどそんな耳が生えた人間なんていない…」
見た目、ねねこは人間だ。もちろん耳があることを除いて。ネコか人間かどちらに近いかといったら、人間に近い。
『ネコ耳が生えた女の子が現実にいるの。それだけは忘れないで』
ついさっき塚居さんに言われた言葉が思い出される。塚居さんなら何かを知っているのかもしれない。
「薬局、行こう」
「ふぇ?病気ですか、病気なんですか…」
「目の病気かも……いや、それとも頭の病気かもしれない」
克人はやけくそ気味につぶやいてみた。
それを聞いたねねこは心配そうな顔をして、書店を去る克人をついて行った。
***
自動ドアが開く。
塚居薬局の内装は普通の薬局と相違ない。ただ、克人はあまり塚居薬局に来たことが
無いから詳しく知らないが売られている商品の一部が普通でないと専らの評判だ。
「あら、ねねこ。いらっしゃい」
「魔女さんこんにちは」
ガラスケースのカウンターひらひらとねねこに手を振る塚居さん。相変わらずの白衣ルックだ。
「魔女? 知り合い?」
塚居とねねこの二人を交互に見ながら克人は呟く。
「そうよ、驚いた?」
「え、えぇ」
素直に頷く克人に満足そうに塚居さんは笑う。
「ねねこをこの姿にしたのは私だもの、知ってないはずがないじゃない」
「この姿?」
克人はねねこを見る。耳がせわしなく動いている。
「そんな馬鹿なこと出来るわけないじゃないですか、人間にネコ耳を生やすなんて」
「あら、何か勘違いしてない? 人間にネコ耳なんかつける意味なんて無いじゃない」
塚居はねねこを呼び寄せて自分の隣に座らせ、頭を撫で始めた。当のねねこはくすぐったそうに目を細めている。
「生やす意味が無い? じゃあそこにいる女の子は…」
「ネコよ。ね?」
塚居はねねこに同意を求めた。撫でられて幸せそうにしていたねねこは突然話題を振られた事に少し驚きながら「はい」と頷いた。
「君、魔法ってあると思う?」
薮から棒に塚居さんは尋ねた。
「魔法?そんなのあるわけないじゃないですか」
魔法といったらゲームや小説の世界の話だ。現実にはあるはずが無い。
「まぁ普通はそう思ってもしかたないわね、特にこの科学バンザイな今では。でも、不思議に思った事無い? 科学には対立する概念がないことに」
「対立?」
「そう、対立。そもそもこの世界は陰と陽のバランスで成り立っているのよ。
だから、一つの概念が生まれた瞬間にそれに対立する何かというのもどこかしらで生まれているの。
でも、あなたたちは科学という概念に対する存在を知らないでしょ?」
「はい……」
「科学は定められた法則を辿るもの。そしてその対立こそ、『望み』が法則をつくる不確定が法則であ
る魔法―――ま、突然言われても理解できないでしょうけどね」
ねねこを撫でながら塚居は淡々と説明をしていく。一方の克人は塚居の予想通り話しの展開に着いていっていない。
「まぁいいのよ、魔法がどうだとかいう話しは。ともかくねねこはネコ、それ以上でもそれ以下でもない」
塚居さんはもうこの話はお仕舞いといった意味を込めて、ひらひらと手を振った。
「君、三日前の雨の日にネコに会ったでしょ、覚えてる?」
「三日前…あぁ」
確かに、会った。忘れるはずも無い。
そのせいで克人は昨日まで地獄の日々が続いたのだから。
***
雨が降っていた。
連日続く長雨の中、今日は珍しく強い雨だった。
傘をさし、鞄が濡れないようにしっかり守りながら克人は家に向かっていた。
「家に帰って、レポートの残り仕上げておしまい。あぁ、今回は余裕持てた」
雨のせいで、誰もこの道を歩いていないのをいいことに上機嫌に少し大きめな声で独り言を言う。
「にしてもあの教授は鬼だ、鬼。レポート50枚、全部手書きしてこいなんて正気の沙汰じゃ無いよ。
この時期雨に濡れたらどうするんだって」
克人が鞄を守りながらあるいている理由はこれだった。
鬼教授真島太朗、彼の授業は必修にして最悪。レポートの量は尋常じゃないうえに
隔週で書かなくてはならなく、一つでも出さなければ単位は来ない。
その上『目が疲れるから』という理由から手書き限定。その他、『今日の嫁の飯がまずかった』
と何癖つけては臨時の課題を出してくる。学生をいびる事を生き甲斐にしているという噂まである。
「絶対本当だよ、あれは」
余裕たっぷりに仕上がりそうな克人は他の人の苦労を思って嘆いた。
「――」
近くからネコの鳴き声がしたような気がする。
「みー」
今度は確かに聞こえた。音は前の方から聞こえる。
「みー」
見ると、道脇に段ボールがあった。『かわいがってください』と書かれた貼紙が貼ってある。声の主はその中にいた。
生まれたてではない。ある程度大きいネコだった。
一軒家が立ち並ぶこの場所にあるということは、ペット禁止のアパートやらマンションやらに引っ越さなくてはならなくなって捨てたのかもしれない。なんにせよ人間の都合だ。
ただそう思っても、克人も人間の都合には敵わない。アパートの規約があるためにこのネコを拾って飼うわけにはいかないのだ。
段ボールの中で冷たい雨に打たれながら新しい主人を探しているこのネコに克人は何もしてやれない。捨てた元の主人を心の中で責めることはできても、この現実をどうにか出来ない段階で口に出してどうこう言える立場には無い。
「みー」
ネコは克人を見て鳴いた。泣いた、のかもしれない。どうしてそこで見ているだけなの? と。
「ごめんね」
全く無責任な言葉が口から出た。自分のネコでもないのに、謝っている。
克人はネコに背を向けた。誰でもしていることだ。鳴いているネコを無視していくなんて事は。別に克人だけ悪いという事はない。
「みー」
ネコはもう一度鳴いた。段ボールをカリカリと引っ掻いている。
その音を聞いて、克人の足が止まる。
克人は鞄を見た。
ふぅ。溜息を一つついた。
何、徹夜すれば間に合う。…………多分。
「これで単位落としたら洒落になんないね」
自嘲気味に笑う。
スッ
克人は傘を段ボールの上に置いた。鞄からレポートを挟んでいたクリアファイルを抜き出して
油性ペンで大きく『傘は取るな』と書き、ホッチキスで傘に貼付ける。
取れないように何度も何度もホッチキス留めした。最後に傘を段ボールにしっかりと固定してやる。
「これでオッケー」
克人にだってこれが単なる自己満足だということぐらいわかっている。こんなことしたって、根本的な解決になるわけじゃない。
だけど、ネコは濡れないで済む。
また明日も明後日も雨が降るかも知れない。天気予報は降るかもと曖昧な発言をしていた。そんな時に傘があれば、このネコは晩秋の冷たい雨に曝されながら新しい主を探さなくて良くなる。克人がしてやれる最大限はこれだけだ。
「じゃあね、良い主人に拾われるんだよ」
後髪引かれる思いのまま、克人は走って家に向かっていった。
強くて冷たい雨が降っている。
***
「君があのときのネコ?」
信じられないといった表情で克人はねねこを見た。
「はい、あの時はありがとうございました」
ねねこはニコリと笑った。その笑顔が克人には少し痛かった。
「まだ疑うなら証拠の傘とクリアファイルでも出そうか」
ニヤニヤと笑いながら塚居さんは言った。
「傘とクリアファイルですか」
これで疑うことが出来なくなった。どうやらこれは現実で、どうやらねねこはネコらしい。
「じゃあ、これが魔法の力なんですね」
理由や原因を考えずに、今目の前にある現象を事実として受け入れれば驚きの対象として見れる。疑問が残らないかといえば
もちろん嘘になるだろうが。
「そうよ」
塚居さんは傘とクリアファイルを取り出し、スズランテープで結った。クリアファイルには確かに克人の字で『傘は取るな』と書いてある。
「ねねこ、君はなんでその姿に?」
「あっ、はい。恩返しがしたいんです、私」
「恩返し?」
克人は首を傾げた。
「傘、嬉しかったんです。だから恩返ししたいんです」
「あぁ、あれか。いいよ、そんな恩返しだなんて」
「いえ、そんなこと言わないでください」
克人に断られ、ねねこはオタオタする。
「いいんだって」
克人は笑いながら手を振った。
ブォン
不穏な音と共に投げ付けられるスズランテープ付きの傘。
「うわっ」
克人が避けると、傘はガシャンという音を起てて後の棚に突っ込んだ。
「このフヌケ。こんな可愛い娘が恩返ししたいなんて言ってるのよ? 君、今までの人生にそんな経験あった?」
傘を豪速スローした塚居は克人を睨みつける。
「ねねこが魔女たる私を見つけるのにどれだけ苦労をしたか、君にはわかる?」
克人が怒られている様子を見て、ねねこはさらにオロオロする。
「とにかく、君は甘んじて恩返しされなさい。据え膳食わぬは男の恥って格言、知ってるでしょ」
ビシッと人差し指を向ける塚居さん。
「格言、なんですかそれは」
「揚げ足取らない」
ビシッと人差し指を向け直す塚居さん。
「ほら、ねねこが困ってるでしょ。とりあえずご飯でも食べてきなさいな」
塚居さんに言われて見ると、どうしていいかわからなくなったねねこはオロオロを越えてしまい思考停止に至ったらしい。気が抜けた様子で佇んでいる。
「このままってのも、確かにいけませんね」
ねねこの様子を見て、克人は笑った。
「そうよ」
塚居さんが力いっぱい同意をする。
「ねねこ」
克人は優しい声でねねこを呼ぶ。声をかけられたねねこは嬉しそうに耳を立て、反応する。
「はい!」
返事と一緒に右手を上げている。克人は思わず笑ってしまった。
「時間もいいし、これからお昼を食べに行くんだけど一緒に来れるかな?」
「いいんですか!?」
ねねこは目をキラキラさせて言う。
「うん、もちろん」
克人は笑った。
「行きます、行きます!」
ねねこは嬉しそうに何度も首を振った。
***
薬局を出た。朝よりは人がいるものの、学生やら夕飯の買い物をするおばちゃんやらがいないこの時間はたいして人がいないことに変わりはない。
「そのフード、外しちゃ駄目だからね」
克人はねねこのフード姿を見て言う。
「なんでですか」
「変な感じがするのはわかるけど、これから行くお店の店長は
人間以外全て食材だと勘違いしているんだ。もしねねこのフードが取れると食材にされちゃうかもしれない……」
「そんなぁ」
ねねこはカラカラと笑いながら手をパタパタさせる。丸っきり信じていない。まぁ、それは仕方がない。克人は真剣な表情で話し始めた。
「これは聞いた話なんだけど、ある日店にオウムが迷い込んだらしいんだ。すると店長、李さんっていうんだけど、李さんは突然『オウムはまだ調理したことないネ』って言うとオウムを捕まえてから揚げにして甘酢をかけはじめたらしいんだよ」
「……おいしそう」
ねねこは話しを聞いてコクンと喉を鳴らす。
「いやいや、そうじゃなくてね。だからねねこも気をつけてねって話なんだけどなぁ」
克人は苦笑いをする。
そんなことを話しているうちに、中華飯店『影武者』に着いた。手動のドアを開けて中に入る。
昼時を少し過ぎたせいか、はたまた李さんの人徳か、店内に五つある中華テーブル全てに人がいなかった。勘違いしないでほしい、味は良い。
「いらっしゃい、って克人ヨ」
威勢のいい出迎えの声から一変、落胆の声に変わる。
「そんな落ち込むことは無いじゃないですか」
「克人は定食しか頼まないから嫌いネ」
李はがっかりとした声で言う。
「あはは、でも李さんの店の定食は美味しくて量あるし」
「お世辞はいいネ。それより、克人の隣で震えてるのは誰ね?」
李は克人の影に隠れているねねこを指差した。
「ねねこっていうんです」
「ねねこ……どこかで会ったこと無いかネ?」
ねねこは答えずに克人の上着をギュッと握った。
「ご、ごめんなさい。ねねこは人見知りが激しくて初対面の人とは話せないんですよ」
ねねこの態度に不機嫌そうな顔をした李さんを見て、克人は慌てフォローを入れる。
服にしがみつくねねこを連れて適当な椅子に座って適当な定食を注文した。
「結局定食ネ」
李は不機嫌そうに厨房に入って行った。
「どうしたの?」
未だにねねこは怯えている。
「朝、あの人に会ったんです」
「それで?」
「凄い怒られちゃって……まだ怒っているかもしれません」
ねねこは震えた声で言う。
「大丈夫、気にしてないって。むしろさっき無視したのを怒ってるよ」
「ふぇ?!」
怒ってるという単語に反応して、今度は泣きそうな声を出す。
「大丈夫だって、料理運んで来た時にさっきの事を謝れば許してくれるよ。僕が合図を出すから、ね?」
克人は笑ってみせた。
ねねこも笑った。もう大丈夫だろう。
しばらく話していると、両手にトレーを持った李さんが厨房から出てきた。
「はい、マーボー定食ヨ」
「ほら」
克人が合図をする。ねねこはこくりと頷いた。
「あ、あの」
がたっと椅子を立ち、勢いよく頭を下げる。
ガシャン
お盆が落ちる。
李さんの目が輝いた気がする。
「ねねこ、出るよ!」
慌てた様子で克人がねねこの手を取る。
「ネコ耳娘を調理したことはないヨォ!」
勢いよく頭を下げた時にねねこのフードが取れ、ネコ耳が出ていた。
李はテーブルを乗り越え、ねねこにつかみ掛かろうとする。マーボー定食は見事にひっくり返り、床に落ちた。
克人はねねこを引っ張り寄せて李さんの暴走から守る。
「ど、どうしたんですか?」
唯一この状況を理解できていないねねこはキョトンとした顔で克人に尋ねる。
「フードが取れて耳が見られちゃったんだ!」
克人はバーサーカーのような李の攻撃から楯になって守る。まるで精密機械のように、どんなに勢いのついた攻撃でも克人相手には寸留めし、指一本触れなてない。
「ここから出るよ」
克人がねねこの手をギュッと握る。
「は、はい」
何がなんだかわからない様子でねねこはコクコクと首を振る。
手動ドアであったことが幸いだった。素早くドアを開け、擦り抜けるように店から出る。
「待つネ、ネコ耳。素直に調理されるネ!」
商店街を疾走する二人の後姿に向かって店の中から李が叫んだ。店を放置しておくわけにはいかない。悲しいかな、貧乏なのでバイトを雇うことすらしていないことが仇になった。
***
「大変だったね」
苦笑い混じりに克人は言った。凄い空気が重い。
「何か飲む?」
腫れ物にさわるような慎重さで克人はねねこに話し掛ける。
「要りません」
ねねこは怒った声で断る。
克人の部屋に逃げ込んだ時からねねこはずっとこの調子だ。何に対して怒っているのか克人はわからないので、どうしていいのかわからない。
「ねねこ?」
克人はねねこを見る。
目が合ったと思ったらすぐにねねこはそっぽを向く。空気が重い、とんでもなく重い。
「どうして怒っているのか、話してくれないかな」
努めて優しく、努めてゆっくりと話しかける。
だが、そんな努力は今のねねこには無駄そのものだったようだ。
「わからないんですか?」
呆れと怒りが混じった声で叫ぶ。
「えっ、う、うん」
「そうですか、そうなんですかこれが正体だったんですね。エッチな本を平積みにしておいて平然な人なんですね」
声に涙が交じって来ている。ますます克人には解らなくなった。
「私をこんな部屋に連れ込んで……優しいフリしてそれが目的だったんですか。わかりました、脱ぎます」
そういうとねねこは上着に手をかけはじめた。
「ちょっと待って!」
克人は慌ててねねこを止める。
「止めないでください、わかっています、これも恩返しの形の一つなんですよね」
「いや、それはない、ないから。それにどこにエ、エッチな本なんて」
ねねこはキッと克人を睨み付け、上着にかけていた手をいっぱいに広げて部屋中を指した。
「あるじゃないですか、そこらじゅうに!」
克人にはますますわからなくなった。周りにある本といえばイヌやネコの写真が掲載されている雑誌ばかり。いや、確かに一糸纏わぬ姿ではあるからヌードと言えないこともないんだけど。
「あれのこと?」
克人が雑誌の一つを指差した。ネコが毛糸と戦っている写真がグラビアの雑誌だ。
「はい」
力いっぱいに頷くねねこ。ガバッと立ち上がり、こんどはスボンに手をかけ始める。
「下ですか、下がお好みなんですね。わかりました、脱ぎます」
「だから、待ってって!」
Gパンのボタンに手をかけていたねねこを力ずくで座らせる。
「ふわっ」
突然肩にかかった強い力にねねこは驚いた。
「座って、ですか。難しいですけど頑張って」
「頑張らなくていい」
克人はねねこの目を見て言う。真剣なその目を見て、ねねこはようやく落ち着く。
「わかった?」
克人は優しく尋ねる。ねねこは表情を緩ませ、頷いた。
「意外と力が強くてびっくりしました」
未だに肩にかかっている克人の腕を見て小さく呟いた。二人の距離はそんな小さな呟きが十分聞こえるような距離だ。
「あっ、ごめん」
克人は慌てて手を離す。
少し沈黙が続いた。
ぐ〜
だけど、それは直ぐに破られた。
「何か食べようか?」
「はい」
お腹の虫を鳴らした犯人は苦笑いして頷いた。
克人はすぐに冷蔵庫にあった冷御飯をつかって炒飯をこしらえた。素早く簡単に作れる料理として、炒飯はもってこいだ。材料も簡単な物で済む。
皿に持った炒飯からは湯気がでている。おいしそうな卵炒飯だ。
「熱いから気をつけてね」
「はい、いただきます」
克人からレンゲを受け取ると、手を合わせていただきますをする。よくフーフーしてから一口。やっぱり猫舌らしい。
「おいしいです」
「ありがと。李さん仕込みの炒飯だからね」
ガシャン
克人が笑いながらいうと、目の前でねねこがレンゲを落とした。フルフルと震えている。どうやら李さんの名前はねねこの心に深い傷として刻まれてしまったらしい。
「そ、そういえば、『トリックオアトリート』って言わなくなったね」
無理やり話題を変える。
「だって、こうやって構ってもらってるじゃないですか」
「確かにそっか」
持ち直したレンゲを器用に使って炒飯を平らげているねねこを見て、克人は尋ねた。
「レンゲ使うのは初めて?」
「はい、そうです」
どうしてそんなことを聞かれるのかわからないねねこはきょとんとした目で克人を見る。
「それにしてはうまいよね。他にも服の着方とか初めから知ってたみたいだ」
「それはですね、魔法の力らしいんです」
「魔法か」
雨の日に出会ったネコを目の前にいる少女にしてしまった、信じられないけど確かに存在している力、魔法。
「まったく不思議な力だね」
「確かにそうですね、私こうやってここにいるんですから」
炒飯を食べ終え、まったりとテレビを見た。くだらないニュースに笑ったり、初めて見るCMに笑ったり感動したりとそれなりに忙しい。克人は久々にこんなくだらない忙しさを味わった気がした。
暗くなって来たのでカーテンを締め、電気を点ける。
「外に、出ませんか?」
突然ねねこが切り出した。
「外?」
克人が聞き返すと、静かに頷いた。今までのねねこの様子と明らかに違う。
「わかった、いこうか」
ズボンに財布を入れ、克人は立ち上がった。
風が少し出てきた。
***
ねねこが先頭に立って歩く。克人は行き先すら知らない。もしかすると、ねねこ自身も行き先が無いのだろうか。
「ねぇ、どこに行くの?」
一言も話さずに歩くねねこ。克人の問いかけにすら答えない。
克人の家からだいぶ離れたところにある公園の前でねねこは止まった。
「ここ、入りましょう」
克人の返事を聞かずにねねこは公園の中に入り、ブランコの柵に腰掛けた。克人はそのねねこを上から見下ろすように立った。
「ここ、魔女さんと会ったところなんです。ちょうど、今のみたいに私が上から見られていたんですよ」
ねねこは二人を交互に指差す。手を柵に戻すと、再び話始めた。
「私、傘を貰ってからずっと、恩返しがしたくて無理だとわかっていながらずっとそればっかり考えていたんです。そうしたら、魔女さんに会いました」
ねねこは淡々と話しながら、克人の顔を見ていた。月が低いため辺りは暗く、公園の街灯のみが二人を照らしている。
「魔女さんはすぐに私の願いを叶えてくれました。本当に嬉しかった。嬉しくて、話しかけたくて、すぐに家に行きました。でもどうやって話しかけたらいいかわからなくて、魔女さんに聞いたら『今日はハロウィンだからトリックオアトリートでいいんじゃない』って」
くすくすとねねこは笑う。でも、どこか悲しそうに聞こえて、克人はその笑いに乗れなかった。
「本当に、今日は楽しかった。どうでした私、恩返しできてましたか?」
心配そうに語尾を濁らせながらねねこは訊く。
「うん、楽しかったから満足しているよ」
たった一日、それも数時間の間だった。初めは信じることすらしなかったけれども、ねねこと話をしていくうちに段々と楽しくなっていった。くだらない冗談で笑い合えたり、ねねこのちょっとしたドジをみたりするのが楽しかった。それだけで十分満足できている。
「よかったぁ」
安心しきった声を出している。しかし、表情は違う。ねねこは克人をまっすぐに見れない。
「今日しかないのに、今日しか、ないのに……もし、恩返しができなかったら……どうしようかと本当に悩んでたん、です」
嗚咽をかみ殺しながら、ねねこは言い切った。
「今日しか?」
ねねこは頷く。
「魔女さんから、今日一日だけ人間の姿になれる魔法をもらったんです。だから、今日……一日……」
魔法も万能でないらしい。この奇跡を起こせる時間が一日とは。
「私、捨てられたんです。ずっと飼ってもらっていたご主人に。引っ越すから、引っ越した先では飼えないからって。でも、おかしいじゃないですか! 家族を捨てたんですよ、ずっとずっと家族だ、家族だって可愛がってくださったご主人は私を捨てたんです。家族なのに……」
ブランコの柵を握る手に、力がこもる。
「私はそのとき、ずっと信じてきた人間を信じられなくなりました。ずっと好きだった人間のことが嫌いになりました。箱に入れられてご主人が引っ越す姿を見ていました。ご主人が居なくなった後も、たくさんの人が素通りするのを見てました。雨が長いこと降っていました。誰も、私のことなんて見てくれてませんでした」
ねねこは克人を見て無理やり微笑んだ。
「そんなとき、あなたが現れました。傘をくれました。自分が濡れることを省みず、傘をくれました。その瞬間、人間を信じてもいいような気が、また起こりました。だからその恩返しがしたかったんです」
ブランコの柵から離れ、ねねこは克人の後ろに回る。
小さい体で、ねねこは後ろから克人を抱いた。抱いたというよりも、寄りかかったというイメージの方が近い。
「ありがとう、ございます。本当に、ありがとうございます」
ねねこが言い終えると、抱かれている感触がなくなった。後ろには、一匹のねこがいた。
***
人間とはなんと自分勝手な生き物だろうか。
他の動物を保護の対象と考えている。
決して、対等な立場として捕らえようとはしない。
飼えなくなったら捨てる、そんなことが行われる。
目の前に居る、もう話すことをしないネコはどんな苦しみを味わったのだろう。
本当に信用していた人から、捨てられた苦しみ。誰も信じられなくなるという感覚。
克人は、ため息をついて目の前のネコを見た。
できることなら、もう一度人間と一緒に暮らすべきだ。でも、克人は何もしてやれない。
克人のアパートはペット禁止だ。だから、かわいそうだからといって連れてかえるわけにはいかないのだ。
大家に直談判に行ったが、無理だった。ペットは駄目、その一点張りだった。
何もしてやれなかった。
頭を抱えた。
なにか。
なにかしてやれないか。
なにか。
なにかあるはずだろう。
なにか。
なんでもいいから。
なにか。
「呼んだ?」
視線を上げると、そこには塚居さんがいた。
「どうして」
克人は小さくつぶやいた。
「どうしてもこうしても、君が呼んだのよ」
呆れた顔で克人を見る。そんな塚居さんに、どうしても訊きたいことが克人にはあった。
「どうしてねねこがあの姿で居られるのは一日なんですか」
「あぁ。多分、あの子ならすぐに願うことをやめるんじゃないかと思って」
「願うこと?」
「そう」
塚居は頷いた。
「魔法っていうのは、願いが叶う力なの。でも、願った本人が願わなくなった瞬間にその魔法は消えるの。パワーの供給がとまるようなイメージよ。人間だって食べ物をを食べるように魔法は願い続けることを糧にするってわけ。それで、ねねこならすぐに願うことをやめるんじゃないのかと思って時間制限っぽい言い方をしただけ」
「ねねこの願いって、なんだったんでしょう」
克人は塚居さんに尋ねた。さも簡単そうに塚居さんは答える。
「あなたに恩返しすることよ」
「恩返し……」
克人は目の前にいるネコを見た。
「塚居さん、魔法を使うのって大変ですか」
「そうでもないわね」
あっけらかんとした口調で塚居さんは言う。
「むしろ、大変なのは使われた方。願うことをやめた瞬間に魔法が切れるんだから」
「じゃあ、魔法を使ってもらえませんか」
克人は目の前のネコを拾い上げる。
「ねねこを、人間にしてください」
「いいの?」
大家を言いくるめるには、要はねねこがネコの姿でなければいい。そうすれば納得してくれるはずなのだ。
しかし、克人が一瞬でもねねこが人間の姿でいることを望まなくなったとき、ねねこはすぐにネコの姿に戻る。そうすればねねこを飼うことは克人にはできなくなる。飼えなくなれば、もしかすれば克人もねねこを捨てることになるかもしれない。またねねこを傷つけるかもしれない。普通に飼うよりも遥かに責任は重い。
「はい」
克人は微塵も迷わず、強く頷く。
「人間にした後、どうすればいい?」
「一緒に暮らして欲しいと思ってます。だから、僕の家へ」
「わかった、じゃあ一日預かるから渡して」
克人は塚居さんにねねこを手渡す。
***
結局、あの後一睡もできなかった克人は家の片付けをしていた。とりあえず片付けなくてはいけないのが雑誌類だろう。また騒がれたら大変だ。そんなことを考えるだけで少し楽しくなってくる。
朝の5時を過ぎた。昨日はこの時間に来たのだが、今日は来ないようだ。
朝の8時を過ぎた。大学に行かなくてはいけない。迷ったが、なぜだかこなそうな気がして、塚居薬局で待つようにとドアに張り紙だけして大学へ行った。
夕方の16時を過ぎた。帰り際、塚居薬局に行くと、何故か臨時休業の張り紙がされていた。
夕方の17時を回っても、ねねこは一向に現れない。
どうしたのだろうか。
ニュースを見る。昨日ほど面白くない。
ノートを開いた。心配でペンが動かない。
ラジオをかける。雑音に聞こえて仕方ない。
魔法が失敗したのだろうか、自分と暮らすのが嫌でねねこが逃げ出したのだろうか……さまざまなマイナス思考が頭の中をめぐる。
ドンドンドン
ドアを叩く音がした。
音に反応して素早くドアの前に克人は立つ。
「どちら様でしょうか」
恐る恐る、期待交じりの声で訊く。
「私です、ねねこです」
ガチャ
ドアの前には大きなバッグを持ったねねこが居た。
克人はバッグを受け取り、ねねこを中へと入れる。
「これはなに?」
笑いながら克人は尋ねた。
「お洋服とかです。魔女さんが買ってくれました」
嬉しそうにねねこが答えた。どうやらタンスを買わないといけないようだ。
ねねこは克人の前に立つ。
「お世話になります、塚居ねねこです」
深く頭を下げる。
「晴山克人です、よろしく」
克人も頭を下げる。
なんだかおかしくて、二人して笑った。
「克人さん」
「ん?」
克人が聞き返すと、ねねこは微笑んで、言う、
「ありがとうございます」
更新途絶えてました。
ごめんなさい。あと、もっと小説らしい文がかけるようになりたいです。
次回は二次作品(うたわれ)になるとおもいます。
原案はできているので文化祭が終わったら打ち込み開始です。